平成元年上半期、後志はリゾート開発ラッシュである。後志支庁によると大口取引の届出260軒を越し、前年同期の160軒を更に100軒も上回る勢いであり、更に今後増加の傾向を示している。
平成元年10月に東京で実施した「ニセコ高原イメージアンケート」の集計結果、81.8%がニセコを知っている。実際に訪れた人は41.9%に上がり、季節別では夏44.0%、冬40.0%、春26.7%であり、冬より夏の方が多い。又、イメージを自由記入方式にしたところ、スキーに関するイメージは32.5%であり、他は「さわやか清潔」「自然景勝地」「雄大・拡大」と自然に関するものが多い。ニセコ山系観光連絡協議会では,この結果をふまえ、スキー場整備などの他、夏・秋の観光として自然景観保護が必要と分析する。
「温泉掘削申請状況」倶知安保健所管内で新たな温泉の掘削が活発になってきた。申請は前年度の倍以上に達し、ニセコ山系のリゾート開発ラッシュが影響しているものと思われ、泉源の衰退を心配する声も聞こえてくる。倶知安町山田では、国際振興・千代田化工建設・井晃開発・ニセコ町ニセコでは、テーシ商亊など4件である。
「リゾートオフィス構想」清水建設・内田洋行・進学会・アルファフォームなど異業種7社の北海道開発問題研究会が湯里にテレコム(高度電気通信)を始動する。都会の喧騒と電話・来客の雑務から逃れ自然の中で仕事に専念し、気分転換を計りながら、パソコンを共有し共同で研究を進めていくという、将来のオフィスの発見を試みている。
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平成2年1月15日、ひらふスキー場と東山スキー場で雪崩による遭難が起き、不幸にも1名が死亡した。東山に入った捜索隊員らはスキーヤーの非常識な行動を指摘、同日、札幌管区気象台は大雪崩注意報を発令しており、注意を呼びかけていた矢先の事故であった。当日は8日から12日まで暖気が入り、その後数日冷えこみ雪面が氷結状態であった。その上に約50cmの新設が降り、表層雪崩の起きやすい状態で、捜索中も2度にわたり小規模な雪崩が生じた。
現地対策として、危険区域の看板増設、巡回強化、ニセコスキー場安全対策連絡協議会による危険区域マップ作成、立入禁止看板をひらふスキー場16基、東山3基の設置を行った。
「ゼロ戦の発見」終戦から45年、アンヌプリ藤原の沢でゼロ戦が発見された。戦時中に世故アンヌプリ山頂には、着氷実験のため北大低温科学研究所がニセコ観測所を設置していた。山頂の約110平方の居住棟、風洞実験棟、ゼロ戦1機、100馬力電動モーター2台、プロペラなど旧日本軍極秘軍事実験所であった。
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平成3年、ひらふスキー場の水不足に対応するべく町は水道工事を行う。水源は羊蹄山比羅夫登山口半月湖近くに2本の水道井戸を掘削し、ここからスキー場まで送配水官6.8km埋没する大規模工事である。
これにより、昭和48年に簡易水道が敷かれ、日量1.440トンの給水が可能となる。
湾岸戦争の余波で海外旅行の自粛が行われたが、国内の各スキー場は逆に大賑わいであった。ひらふスキー場は12月、雪不足の影響で20%ダウンしたが、2月に入り海外旅行自粛組も含め入込みは多く、春までに出遅れを完全にカバーした形となった。
「アルプホルン」昭和63年、サンモリッツ市より寄贈された4本のアルプホルンは、平成元年4月に結成されたアルプス音楽隊に引き継がれ、現在総数10本。
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