ニセコアンヌプリ(崖の上の山)の名で地図に載るのは、明治24年発行の道庁20万分の1の地図からである。明治29年陸地測量部発行の5万分の1地図には倶知安村の名が初めて入る。
「クチャ・アン・ナイ」(猟人の小舎のある沢)。また、共和町から峠を越えて、倶登山川に近いところに岩盤があり、流れは1m程の岩の間を通る「クッ・シャン・イ」(崖の所を・流れ出る・もの)がクッシャニとなり、クッチャンとかわったものとの説がある。
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1555年 |
弘治元年 |
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1718年 |
享保3年 |
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1774年 |
安永3年 |
- ノルウェー陸軍がスキーのための「冬期服務規程」作成
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1804年 |
文化元年 |
- 間宮林蔵「北蝦夷図説」で樺太の奥地住民がストウーをつけた図を紹介[〜1812]
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1806年 |
文化3年 |
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1812年 |
文化9年 |
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1843年 |
天保14年 |
- [2月]ノルウェーのトロムソで本格的なスキー競技会
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1861年 |
文久元年 |
- [3月15日]ノルウェーのクリスチャニア(現オスロ)にスキー連盟発足
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1863年 |
文久3年 |
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1889年 |
明治22年 |
- フリチョフ・ナンセン、スキーでグリンランドを横断する
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1891年 |
明治24年 |
- 「北海道植民地選定報文」にクッチャン原野の名が出る
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1892年 |
明治25年 |
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1893年 |
明治26年 |
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1894年 |
明治27年 |
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1895年 |
明治28年 |
- 日清戦争の戦利品として松川大将が日本に始めてのスキー1台を金沢に持ち帰る
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1896年 |
明治29年 |
- 雑誌「小国民」5月号にノルウェーのスキージャンプ記事が掲載せれ、日本のスキー文献として最古のもの
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1897年 |
明治30年 |
- 山田温泉営業許可がおりる。木造平屋建50坪8室の旅館として開業
- えぞ錦の父・柳原虎蔵、樺山に移住
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1899年 |
明治32年 |
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1904年 |
明治37年 |
- [10月15日]北鉄線(北海道鉄道)全線開通、倶知安、比羅夫駅開業
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1906年 |
明治39年 |
- [5月30日]倶知安村第1回村会議委員選挙
- 英国行使館付武官、デルメーランド・キフ氏北海道視察の際に、札幌月寒25連隊の将校にスキーを寄贈
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1907年 |
明治40年 |
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1908年 |
明治41年 |
- スイス人北大講師ハンス・コラー、学生にスキーを紹介する
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1909年 |
明治42年 |
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1910年 |
明治43年 |
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1911年 |
明治44年 |
- 樺太島技としてストウーの第1回競技大会を樺太庁が開催する
- レルヒ少佐、越後の高田で初のスキー講習会
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1912年 |
明治45年 |
- [4月16日]レルヒ少佐一行、旭ヶ丘(通称大黒の山)でスキー練習、17日羊蹄山登山を行う
- [6月]北大文武会スキー部設立
- 札幌時計商・中野四郎、スキー専用工場を建て、スキー製造を始める(ツバメ印)
- [12月22日]三角山スロープで北大スキー部の第1回スキー講習会開催。50名が参加
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目的は、前年富士登山を断念せざるを得なく、羊蹄山(通称エゾ富士)を旭川の地におけるスキー訓練の総仕上げとして登ることにあった。
明治45年4月15日、夜9時30分倶知安到着。駅前の旭旅館(現在の安藤旅館)に宿泊。16日午前5時に出発の予定であったが、雨のため1日延期とする。午後晴れ間がのぞき、近くの大黒の山(現在旭ヶ丘の北隣)でスキー練習を公開。翌17日朝6時出発。8時山麓のエゾ富士登山会事務所着。13時7合目、14時頂上に達する。頂上付近は嵐と霧で気温はマイナス32度もあり、スキー登山というよりも完全な冬期積雪登山であった。17時30分、一行は無事山麓事務所に着く。この間9時間の行程であった。
『雪風と登攀との苦闘!休息は僅か数分間に過ぎなかった』レルヒ自身が述懐している。 レルヒの羊蹄登山は小樽新聞・奥谷記者の同行もあって、連日、新聞報道がなされた。後日も論評や紀行文が随時連載され、スキーを社会に広めた功績は多大であった。
明治44年正月、レルヒは明治37年にスウェーデンから送られた2挺のスキーを高田連隊の倉庫で見つけ、『このスキー(二本杖スキー)は知っている。これはよくない方で自分達はこれはできない』とわざわざ単杖のスキーを輸入した。
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