昭和15年からこれまでの全日本スキー選手権大会後志予選は廃止され、「明治神宮大会」の予選と変わる。 |
1927年 |
昭和2年 |
- 札幌にて第5回全日本スキー選手権大会中止。全国的にスキー行事はこの年1年間中止が続く
- 蘭越、住吉栄作スキー製作を始める
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1928年 |
昭和3年 |
- [1月14日〜16日]第1回学生選手権大会が大鰐で開催
- [1月15日]倶中・倶知安スキー倶楽部、ワイスホルン登頂
- [1月22日]小樽スキー倶楽部、ニセコアンヌプリ登山を比羅夫側より60名で行う。団体登山の始まり
- [1月28日]倶中・倶知安スキー倶楽部、ニセコアンヌプリ登頂
- [2月]サンモリッツの第2回冬季オリンピック大会に日本選手7名参加
- [2月22日]小樽新聞紙上の三瓶勝美氏談「レルヒ氏は北海道に来て…10年後には必ず、東洋のサンモリッツとして大発展…」と東洋のサンモリッツの言葉が始めて見受けられる
- [3月1日〜3日]当日付小樽新聞に「青山温泉付近スキー地域を本道スキーマンが極東のサンモリッツ」と呼ぶ
- [3月1日〜3日]秩父宮殿下、青山温泉を拠点にニセコアンヌプリ、チセヌプリスキー登山を行う
- [5月]昆布駅から昆布温泉までの自動車運転始まる
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1929年 |
昭和4年 |
- 小樽新聞主催スキー・スケート博覧会、札幌で開催
- 札幌方面よりスキー列車が運行され、倶知安駅に列車ホテル出現
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1930年 |
昭和5年 |
- シュナイダー、小樽・札幌で講演・実技を行い、本道スキーヤーの基礎技術・山スキーの大進歩が図られた
- [12月10日]札幌鉄道局、当日より毎金曜日に書くスキー場積雪発表(ニセコ・ワイス・喜茂別岳・目国内岳・えぞ富士の各積雪)
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1931年 |
昭和6年 |
- 後志保勝会、支庁内に設立、会長は支庁長
- 冷害・大凶作の年で町内の水田の3分の1が無収穫
- 倶知安スキー倶楽部、西野克己・菊池仁作ら5名、羊蹄スキー登山
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1932年 |
昭和7年 |
- [1月16日]大倉シャンツェ竣工
- [2月20日]後志保勝会、ニセコ・チセヌプリ温泉案内図発行
- 中越正、京極でスキー作りを始める(ニセコスキーの前身)
- [12月]比羅夫スキー倶楽部設立
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1933年 |
昭和8年 |
- 比羅夫スキー倶楽部、アンヌプリスキー登高縦走大会、山田温泉と山頂の往復
- 後志スキー連盟発足
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1934年 |
昭和9年 |
- [2月25日]旭ヶ丘で後志スキー連盟主催、第1回後志スキー大会開催。参加チームは、倶知安・倶中・比羅夫・ 東倶知安・喜茂別・狩太・小沢・岩内であった
- [3月4日]全後志小学校スキー大会始まり、昭和17年第9回大会まで7ヶ町村で開催された
- [5月25日]林芙美子、北海道旅行の途中、倶知安に立寄る。28日離町
- [12月]倶知安に初めての固定シャンツェ、大仏寺シャンツェ完成
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昭和9年開かれた全後志大会の参加チームのうち比羅夫チームは山田温泉付近、東倶知安は脇方鉱山、倶知安は岩雄登鉱山、狩太は昆布温泉付近、小沢はジャンプだけだった。 |
昭和13年2月19日に行われた女子ニセコ登山会のコースタイムは比羅夫駅より30分で山田温泉、温泉よりタンネ林を2時間30分でぬけ、これより40分でニセコアンヌプリ山頂に立ち、帰りは40分程の滑走である。当時の紹介文「山田温泉からニセコ登山は一般向きのコースで、女子のためには絶好の登山コース」とある。 |
昭和13年の学生選手権大会の計時方法は現代と異なり大変であった。置時計・懐中時計・ストップウォッチを駆使し、選手を性格に1分間隔でスタートさせ、レース終了直後に三者の時計の誤差を算出し記録にそれぞれ加減をする方法であった。(前田克己談) |
昭和14年開催の全日本後志予選は最後の全日本(昭和15年からは神宮大会)で大会役員のほとんどが、支庁、役場、国鉄、教員らの官公庁役員でしめられていた。 |