明治末期に於ける八甲田山大量遭難事件は各方面に大きな波紋を投げかけ、スキーは雪中での移動の手段として、軍やひいては郵便配達に取り入れられ、次第に「生活やスポーツの道具」として広まっていく。
ニセコ山系での大正年間の特徴は学生達(北大・高商など)の活躍があげられよう。
羊蹄スキー登山、ニセコアンヌプリ、チセヌプリ、イワオヌプリと次々と登頂に成功をし、大正8年からは青山温泉で冬期スキー登山合宿を行い、昭和22年までつづくのである。一方、倶知安の地元では手製スキー、下駄スキーが町に見られるようになり、スキー製造者もあらわれ始める。東倶知安村の芳賀藤佐衛門は本業の車・橇製造のかたわら「芳賀スキー」を売り出す。藤佐衛門は冬になると良材を求めてスキーで倶知安から定山渓にかけて山野を捜し歩き、大正15年札幌に移るまで、兄常太郎とともにスキー製造技術を磨く。芳賀の評判に影響され、喜茂別の黒田兄弟、京極の中越正(ニセコスキー)らも手作りスキーを始める。一方、倶知安では六郷の氏家敬次もスキーを作り始める。
大正末13年には倶知安スキークラブが発足し、倶知安「酒場の山」で第1回山麓スキー大会が開かれる。山麓の狩太スキークラブ、京極スキークラブ、倶知安鉄道クラブ、岩内スキークラブ、倶知安スキークラブらが参加をした。大正15年には余市スキークラブが加わり、山麓スキー大会の名称も後志スキー大会となり、倶知安は山麓だけでなく、後志スキーの中心地となる。
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1913年 |
大正2年 |
- [12月22日]北大スキー部第1回蝦夷富士登山(6合目で登頂断念)
- 倶知安冷害で大凶作
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1914年 |
大正3年 |
- [9月]山田温泉、岡田乙吉に売却
- [12月23日]北大スキー部、2回目の蝦夷富士登山(6合目で登頂断念)
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1915年 |
大正4年 |
- [2月11日]倶知安で初めてのスキー大会(市街地実業青年会主催)が旭ヶ丘(酒場の山)で開催
- [4月1日]倶知安村町政施行
- 羊蹄山山火事
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1917年 |
大正6年 |
- [1月10日]倶知安町内の一部に電灯が灯る
- [3月25日]北大スキー部第3回蝦夷富士登山に挑戦、木原ら6名登頂に成功
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1918年 |
大正7年 |
- [12月11日]北大スキー部ニセコアンヌプリ登山(8合目で断念)
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1919年 |
大正8年 |
- 北大スキー部イワオヌプリ登頂に成功するが、アンヌプリはまたも8合目で断念
- [12月]北大スキー部青山温泉合宿始める。この合宿は昭和22年まで続く
- [12月30日]福地義三郎、加納一郎ら5名、始めてチセヌプリ登山を行う。
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1920年 |
大正9年 |
- [1月3日]北大蝦夷富士登山、スキー部だけで登頂成功
- [12月25〜1月2日]第2回青山合宿、ニセコアンヌプリ、チセヌプリ登山
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1921年 |
大正10年 |
- [1月4日]昆布岳スキー登山、板倉勝宣、加納一郎、西尾稔ら10名参加
- [3月3日]後方羊蹄山の鉱山植物、天然記念物に指定される
- 北海道山岳会はスキー奨励のため、三角山に日本最初の国定飛躍台、アルファシャンツェを建設する。
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大正10年5月、北大スキー部、加納一郎、板橋ら「山とスキーの会」を発足させ雑誌「山とスキー」を発行する。約10年間、昭和5年100号で廃刊となるが、道内のスキー、登山技術の向上に著しく貢献した雑誌であった。
北大スキー部のニセコ合宿は高商(小樽商科大の前身)合宿とともに歴史を刻んでおり、青山合宿に於いては、第1回合宿、48名。第2回60名。4回には100名を超え、第6回には129名にも達し、盛大であった。又、合宿の定例行事として合宿中に必ずニセコアンヌプリとチセヌプリを登破することを決めている。
当時の北大スキー部のスキー方式は大正5年、遠藤吉三郎教授が札幌に持ち帰った両杖のノルウエイスキーであった。
大正初期倶知安の「スキー大会」とは、一番長く滑ったものが一等であり、服装は皮長靴に外とうという普段の服装であった。
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大正12年2月10〜11日小樽市で大日本体育協会主催「第1回全国スキー選手権大会」が開かれる。1・4・10kmの距離競技と8kmリレー、回転はテレマークスラロームとクリスチャニアスラロームであった。ジャンプの優勝は16mを記録した。
大正年間は大学生には単杖党が大多数であった。このころ「初心者に両杖を持たしむべからず」の論者が多かった。
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