昭和45年は国体があり、多くのスキー関係者がスキー場を訪れた。 振興会報に当地事業(ひらふ地域事業費)と米作の比較の項目があり、米作1町当たり生産額を51万円と見積る。すると昭和45年の売上2.15億円は水田420町に相当し、昭和50年の予測は1,080町となる。ニセコ高原ひらふという地名は、道内にほぼ広がったが本州では未だに、昆布温泉と間違うことが多かった。 スキー場名称の改正「ニセコ国際ひらふスキー場」とする。11月22日のスキー場開きでめいめい宣言式を行う。 |
昭和46年度でひらふスキーリフト総数10基となり道内では最大、本州では八方尾根、苗場、志賀、妙高、石打、蔵王がリフト10基以上を備えたスキー場である。12月25日に国設ワイススキー場がオープンした。国営スキー場として国内2番目である。 |
倶知安町、林野弘済会、ニセコ高原三者による「ニセコ山系観光開発公舎」は昭和46年より設立準備を進めていた。当面の公社の事業は昭和51年までに予算4億5024万円でニセコアンヌプリ、ワイスを中心にリフト、水道、レストハウス、ロッジ、非難小屋、売店、救護所、ホテルなどを建設する計画で、これと並行して待ちも6,180万円で道路、駐車場、温泉供給計画を立てる。民間資本は6億3500万円でホテル、食堂、売店などを計画。町と公社、民間資本の三者で総額11億4704万円の大事業である。
神仙沼となりの大谷地の湿原には、およそ1万年前のブルム氷河期の生残りといわれているフサスギナが生えている。
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