東京の日東商船が竹を使った、ふつうの製材に勝る夢の木材=ハード・ボードを作るプランがあり、高橋清吉倶知安町長の「原料にぴったりの根曲がり竹がニセコに無尽蔵にある。50年間刈りっぱなしでも大丈夫」との言で資本金1千万円、日産30トンの工場を倶知安町六号に建設、原料の竹を年間30万束切り出すために軽便索道を造ることになった。
そのころ、道スキー連盟は全日本スキー選手権大会を比羅夫口コースで行う計画があり、大会開催にはスキーリフト設置が必要条件であった。しかし、比羅夫口コースにはリフトはなく、道スキー連盟は、「ハード・ボード工場の索道をリフトに」と思いついた。昭和36年5月26日スキー連盟および倶知安町は北海道ファイバーボード工場にスキーリフト設置を陳情する。6月8日、竹中治(日東商船・日本ファイバーアングル工業・北海道ファイバーボード工業社長)氏が、『ケーブルヲリフトニモヨウガエスル ショチョウ』と電報頼信紙に書く。これによって、ニセコアンヌプリ初のリフトが、急転直下決定したわけである。ファイバーボード工業は当時、竹の採取地としてワイスホルン地域に内定しており、それをスキー関係者の熱い思いが比羅夫口にスキーリフトの実現を生むのである。 更に、6月のニセコ高原観光株式会社創立事務所の計画には、ニセコ山系に3か所のスキーリフトの開発があり、その第一に、ヒラフリフト(現ひらふスキー場第1・第2リフト)・チセリフト・ニセコリフト(国鉄山の家コース)の3本であった。そのうちのニセコリフトは、国鉄側の要請もあり、一般スキーヤー対象のコースとし、比羅夫口は、競技用コースと設定していた。
11月に掲載された山小屋ガイドによると、
宿舎名 |
地名 |
料金 |
定員 |
山田温泉 |
ニセコ |
300円 |
100名 |
ニセコ温泉 |
アンヌプリ |
300円 |
150名 |
山の家 |
アンヌプリ |
350円 |
105名 |
チセハウス |
チセヌプリ |
200円
300円 |
60名 |
白金温泉 |
十勝岳 |
1,000円 |
150名 |
ヒュッテ |
天狗山 |
150円 |
20名 |
カルルス温泉 |
来馬山 |
1,000円 |
200名 |
ニセコ高原スキー場民宿組合、会長 稲村大八郎、副会長 小田政信、納田又治、組織部長 松本登事業宣伝部長 浦中政直、会計書記 坂上春男、監査 浦野力の7戸で発足。後に10が参加する。宿泊料は1泊3食500円であった。
当時、全長1,070m(第1リフト570m、第2リフト50m)のリフトは長さ日本一であった。
虻田スキー連盟の行事として、ニセコアンヌプリスキー登山行がある。昭和30年前後、パーティーは10名程で、虻田から長万部で1泊、起床用行先別札を首からぶら下げ、雑魚寝をする。翌朝、昆布よりモイワ山下部より山頂を目指し、頂上から山田温泉方面、比羅夫駅まで滑降する。この行事はリフトが運行されるまで行われた。道内外のスキーヤーはツアースキーの本場として、ニセコアンヌプリの評価は高かった。
スキー場名称変更、ニセコアンヌプリスキー場→ニセコ比羅夫スキー場→ニセコひらふスキー場→ニセコ国際ひらふスキー場。リフトがかかる直前に、スキー連盟 秋山有俊、永江勝郎らが比羅夫にちなんで平仮名のひらふと命名した。
昭和36年、ニセコ高原と町の通信手段は無線公衆であった。
地元スキー関係者の念願がかない「全日本スキー選手権大会」が新装新たな、ひらふスキー場で実現にこぎつけた。12日までの4日間天候に恵まれず、毎日めまぐるしく雪質が変化した。選手達はワックスコンディションが難しかったといわれる。その中で北海道選手団は男子大回転1位から6位まで独占するなど、女子滑降・大回転を野ずく各種目はすべて1位をしめた。初の全国大会を終え、課題は山積みをした。ひとつは除雪やコース整備の主力が自衛隊であり、自衛隊の活躍ぬきには大会は考えられなかった。また大会関係者やマスコミはこぞって宿泊施設の不備を指摘した。山田温泉と大丸ヒュッテの2軒を合わせても200名の収容力にとどかず、急ごしらえの民宿が7軒開業しただけで、大会関係者は全員宿泊できず倶知安から通った。大会関係者は宿泊施設の整備を地元関係者に強く訴えていた。
リフト開設時のスキー場までの交通手段は国鉄比羅夫駅から国鉄バスが酒であり、倶知安からのバスの便は、昭和37年より道南バスが運行を開始する。 また、当時比羅夫駅からの道路は急坂の為車がスタックをして、乗客全員がバスを押す光景も見られた。その後、国鉄バスは当時珍しい四輪駆動のバスを投入する。当時の右岸道路は未整備の状況であったが町当局や、道々管理者の道は整備事業をはじめる。
|