ニセコひらふの歴史
弘治元年〜明治45年大正2年〜大正15年昭和2年〜昭和14年昭和15年〜昭和35年昭和36年
昭和37年〜昭和40年昭和41年〜昭和44年昭和45年〜昭和47年昭和48年〜昭和49年
昭和50年〜昭和51年昭和52年〜昭和54年昭和55年〜昭和56年昭和57年〜昭和59年
昭和60年〜昭和61年
昭和62年〜昭和63年平成元年〜平成3年

ニセコひらふの特徴
羊蹄山の水倶知安町の農業ニセコの春夏秋冬倶知安の気象

ニセコひらふの位置関係
全国地図北海道地図ニセコ周辺地図宿泊施設位置関係図


ニセコひらふの歴史:昭和36年


 東京の日東商船が竹を使った、ふつうの製材に勝る夢の木材=ハード・ボードを作るプランがあり、高橋清吉倶知安町長の「原料にぴったりの根曲がり竹がニセコに無尽蔵にある。50年間刈りっぱなしでも大丈夫」との言で資本金1千万円、日産30トンの工場を倶知安町六号に建設、原料の竹を年間30万束切り出すために軽便索道を造ることになった。

 そのころ、道スキー連盟は全日本スキー選手権大会を比羅夫口コースで行う計画があり、大会開催にはスキーリフト設置が必要条件であった。しかし、比羅夫口コースにはリフトはなく、道スキー連盟は、「ハード・ボード工場の索道をリフトに」と思いついた。昭和36年5月26日スキー連盟および倶知安町は北海道ファイバーボード工場にスキーリフト設置を陳情する。6月8日、竹中治(日東商船・日本ファイバーアングル工業・北海道ファイバーボード工業社長)氏が、『ケーブルヲリフトニモヨウガエスル ショチョウ』と電報頼信紙に書く。これによって、ニセコアンヌプリ初のリフトが、急転直下決定したわけである。ファイバーボード工業は当時、竹の採取地としてワイスホルン地域に内定しており、それをスキー関係者の熱い思いが比羅夫口にスキーリフトの実現を生むのである。 更に、6月のニセコ高原観光株式会社創立事務所の計画には、ニセコ山系に3か所のスキーリフトの開発があり、その第一に、ヒラフリフト(現ひらふスキー場第1・第2リフト)・チセリフト・ニセコリフト(国鉄山の家コース)の3本であった。そのうちのニセコリフトは、国鉄側の要請もあり、一般スキーヤー対象のコースとし、比羅夫口は、競技用コースと設定していた。

11月に掲載された山小屋ガイドによると、

宿舎名 地名 料金 定員
山田温泉 ニセコ 300円 100名
ニセコ温泉 アンヌプリ 300円 150名
山の家 アンヌプリ 350円 105名
チセハウス チセヌプリ 200円
300円
60名
白金温泉 十勝岳 1,000円 150名
ヒュッテ 天狗山 150円 20名
カルルス温泉 来馬山 1,000円 200名

ニセコ高原スキー場民宿組合、会長 稲村大八郎、副会長 小田政信、納田又治、組織部長 松本登事業宣伝部長 浦中政直、会計書記 坂上春男、監査 浦野力の7戸で発足。後に10が参加する。宿泊料は1泊3食500円であった。

当時、全長1,070m(第1リフト570m、第2リフト50m)のリフトは長さ日本一であった。

虻田スキー連盟の行事として、ニセコアンヌプリスキー登山行がある。昭和30年前後、パーティーは10名程で、虻田から長万部で1泊、起床用行先別札を首からぶら下げ、雑魚寝をする。翌朝、昆布よりモイワ山下部より山頂を目指し、頂上から山田温泉方面、比羅夫駅まで滑降する。この行事はリフトが運行されるまで行われた。道内外のスキーヤーはツアースキーの本場として、ニセコアンヌプリの評価は高かった。

スキー場名称変更、ニセコアンヌプリスキー場→ニセコ比羅夫スキー場→ニセコひらふスキー場→ニセコ国際ひらふスキー場。リフトがかかる直前に、スキー連盟 秋山有俊、永江勝郎らが比羅夫にちなんで平仮名のひらふと命名した。

昭和36年、ニセコ高原と町の通信手段は無線公衆であった。


 地元スキー関係者の念願がかない「全日本スキー選手権大会」が新装新たな、ひらふスキー場で実現にこぎつけた。12日までの4日間天候に恵まれず、毎日めまぐるしく雪質が変化した。選手達はワックスコンディションが難しかったといわれる。その中で北海道選手団は男子大回転1位から6位まで独占するなど、女子滑降・大回転を野ずく各種目はすべて1位をしめた。初の全国大会を終え、課題は山積みをした。ひとつは除雪やコース整備の主力が自衛隊であり、自衛隊の活躍ぬきには大会は考えられなかった。また大会関係者やマスコミはこぞって宿泊施設の不備を指摘した。山田温泉と大丸ヒュッテの2軒を合わせても200名の収容力にとどかず、急ごしらえの民宿が7軒開業しただけで、大会関係者は全員宿泊できず倶知安から通った。大会関係者は宿泊施設の整備を地元関係者に強く訴えていた。


 リフト開設時のスキー場までの交通手段は国鉄比羅夫駅から国鉄バスが酒であり、倶知安からのバスの便は、昭和37年より道南バスが運行を開始する。 また、当時比羅夫駅からの道路は急坂の為車がスタックをして、乗客全員がバスを押す光景も見られた。その後、国鉄バスは当時珍しい四輪駆動のバスを投入する。当時の右岸道路は未整備の状況であったが町当局や、道々管理者の道は整備事業をはじめる。




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